本門の本尊

本門の本尊

本門の総本山第二十六世日寛上人は、その著『底秘沈抄 』に、
『文本尊とは[信仰を求める]衆生の対境である、境[である本尊は]衆生の心に能く智恵を発し、その智恵によって自然に修行という振る舞いを起こすのである。

故に対境となる本尊が若し誤っているならば、そこより生じる智恵も修行もまた誤りとなるのである。妙楽大師の謂えること有り「たとえ修行者の決意と信仰心が真実でないとしても、正しい本尊に縁すれば功徳はやはり多い。逆に正しい本尊に非ざれば、たとえ修行者の心に偽りや嘘が無けれども、その人の信心や修行は成仏の種と成らない」等云々。故に須らく本尊を簡んで以て信行を励むべし。(六巻抄42)と仰せであります。

さて、古来より本尊には三義があります。即ち、第一に、全ての衆生が一番根本として尊崇すべきもの。第二に、それは、姿形を特別に荘厳したり作られたりしたものではなく、有りのままで、何ら作られたものではないということ。そして最後に、何よりも信仰心をもって敬い、重んじなければならないものという事であります。そこで、世界の諸宗教が立てている本尊を見てみると、自然崇拝から霊魂・精霊・英雄信仰等々の様々な宗教の本尊がありますが、これらは全て人為的に作られたり、また人間から超越したものばかりであることに気づかされます。また仏教における各宗、各派の本尊も然りであります。日蓮大聖人様は、これらを御覧になられて 『開目抄』に、

諸宗は本尊にまどえり(御書554)

と喝破せられております。これらの内、因果の道理から外れている仏教以外の諸宗教はさておき、仏教の各宗各派においても本尊といえば色相荘厳の仏像が用いられています。しかしこれらは、釈尊自身がすでに 『無量義経』に、

仏は多くの衆生の性格も欲室もそれぞれ異なることを理解している。性格も欲室も異なるゆえに、衆生のためには種々に異なった法門を説いたのである。種々に異なった法を説くことは、仏の方便力を以てしたのである。(開結23)と、

また 『法華経方便品』に、

我は三十二の相を以て自分の身を厳り、智恵の光明によって衆生の世間を照らし出す、無量の衆生に尊ばれて、衆生の為に実相の印[教え]を説く(開結111)

と説かれているように、衆生の機根に応じて、釈尊の説法を素直に信受しやすくするための方便であったことが説かれております。

そこで重要になってくるのが大聖人様が常に仰せられている「本門」という意義であります。即ち、本門とは仏の本地の事であり、またその教え、あるいはそこへ入る門という意味でもあります。天台大師は 『法華玄義』に

最初を指して本と為す。(乃至)三世乃ち殊なれども昆慮遮那一本異ならず百千枝葉同じく一根に趣くが如し

と教示し、釈尊は 『無量義経』に、

無量義とは一法より生ず(開結19)

と説かれております。即ち、根本の法は一つであり、それを説く人こそが本仏であるという事です。それゆえ釈尊は、爾前述門を開いて本地を顕わし本法を説く必要があったのですが、下種仏法の視点より見るならば、その説かれた本地と本法というのは不完全で、未だに歴劫修行と色相荘厳の城を出ませんでした。そこに釈尊の仏法の限界があったのです。

このことを大聖人様は 『守護国家論』に、

仏権なるが故に所説も亦権なり(御書160)

と説かれております。この根本的な欠点を打ち払い、真実の相を示されたのが日蓮大聖人様だったのです。それは、大聖人様が 『総勘文抄』に、

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき(御書1419)

と教示せられ、久遠元初における凡夫即極・即座開悟・人法体一の実体実義を大聖人様の御一身に明示された故であります。それゆえに、大聖人様が説かれた仏法を釈尊の仏法と区別して「独一本門」と称するのであります。

しかしながら、私達凡夫は無始以来、自らの思想に迷い、煩悩と悪業によって苦悩しているのが実状であります。そこで大聖人様は、一切衆生を救済するために大慈大患を起こされて凡夫の対境として大御本尊様を顕わされたのです。それは 『経王殿御返事』に、

日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。(御書685)

と仰せのように、大聖人様の色心そのものであり、決して生身の人間から離れたものではありません。この御本尊、即ち大聖人様に帰命して題目を唱え、境智冥合することによって、私達凡夫にも無始以来より本然として具わっている仏性が御本尊様と感応して即身成仏という大利益が生ずる事を教示して下さったのであります。このことを大聖人様は 『初心成仏妙』に、

譬えば籠の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し。空とぶ島の集まれば龍の中の鳥も出でんとするが如し。ロに妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ。(御書1320)

と説かれているのであります。

今、私達は強盛な信力・行力をもってこの御本尊様に境智冥合、感応道交し、真の功徳をえて、確固不動たる成仏の境界を築いていかなければなりません。正しい仏法と信仰があってこそ、どのような罪障や迫害をも悠々と乗り越え、変毒為薬していくことができるのです。当に御本尊様は、私達の仏性を開き、頻悩・業・苦から蘇生させる大良薬なのであります。

日蓮正宗 宗務院出版 真要より引用

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