本門の題目

『本門の題目』

 

本門の題目とは、本門の御本尊を信じて勤行、唱題折伏に励むことです。

宗祖日蓮大聖人様は、建長5年[1253年] 4月28日、清澄山の嵩が森の 頂きから太平洋の水平線に昇らんとする太陽に向かって、 『南無妙法蓮華経』と雄渾な題目を唱えられました。

この 『南無妙法蓮華経』の題目は、単なる法華経の題号ではなく 、法華経の肝心でもあり、また大聖人が悟られた本因妙下種の題目でもありました。

第26世日寛上人は主師親三徳抄に、(富士家学要集第10巻110)

釈尊下種の仏子は在世及び正像に皆悉く得道す 故に未法の衆生は本未有善にして、曾つて過去の善苗無し、釈尊違くこれを鑒て上行菩薩に 妙法五字を付嘱して始めて成仏の種子を下さしめ給ふ。

と説かれています。久遠の昔に下種を受けた本巴有善の衆生は、インド出現の釈尊の在世及び減後の正法・像法の二千年間に悉く成仏しました。

しかし、末法出現の衆生は、久遠の下種を受けていない本末有善の衆生ですから、いくら釈尊の説かれた脱益の教えを信じても、種がないのですから芽がでるはずもありません。仏種の無い衆生には下種をしなければなりません。久遠元初に下種された南無妙法蓮華経のお題目を、未法今時に直ちに説かれたのが未法の御本仏である日蓮大聖人様です。

しかし、大聖人様の仏法は、久達元初に即座に悟り衆生に下種された妙法であり、大聖人様によって即座に末法に下種される久達即末法の教えであり、 事の一念三千の本門の本尊を法体とする題目です。

私たち末法の衆生の成仏は、大聖人様の御法魂として頼された本門の御本尊を信じ、文底下種の南無妙法蓮挙経のお題目を唱えることにより、南無妙法連半経の御本尊と境地緊合するところにあるのです。

今、その南品サ法連準経のお題目を一生懸命唱えながらも、信仰の対象を間違えて仏像を拝み、邪義を信ずる者たちがいます。その人たちは釈事の税益の教えと大聖人様の下種の教えを混同し、その相達が解らない為に釈尊を仏、大聖人様を菩薩と拝するため、大聖人様御図顕の御本年を軽視して釈尊の仏像を拝み、本尊に迷っています。或いはまた大聖人様の教えを歪曲し、唯授一人の血脈相承を否定してニセ本事を作る者たちは、大型人様のお心に背いているのですから、いくらお趣目を唱えても功徳を積むどころか罪障を重ねることになります。

曽谷殿御返事に、

何に法華経を信じ給ふとも、諦法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。 『毒気深入、失本心 故 』とは是なり(御書1040)

と仰せのように、自分では法挙経を信じ大聖人様の教えを信じているつもりでも、間違った解釈をし、間違ったものを本尊とし、 間違った信心をしたならば、功徳を積むどころか地獄に堕ちる罪業を作ってしまいます。

大事なことは、大型人様が未法の御本仏の御法魂として御図顕された本門の御本尊を信じて、血脈相伝に基づいた教えを正しく信じ、お題目を唱え、なおかつ動行・折伏を実践することであり、これを 『本門の題目』と云います。

この『本門の題目 』にはニつの意味があります。一つは『信 』の題目、二つに『行 』の題目です。

『法蓮抄 』に、

信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごと(御書814)

と、また、 『本因妙抄』には、

信心強盛にして唯余念無く南無妙法連華と唱へ奉れば凡身即ち仏身なり。是を天真独朗の即身成仏と名づく(御書1679)

と仰せのように、お題目は深く信ずる 『信』と、日々の実践である『行』 の両面が大事です。また行の題目とは、実践といってもただ自分の修行としてお題を唱える自行の意味だけではありません。

『三大秘法抄』に、

題目とは二意あり。所謂正像と末法なり。正法には天親善薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りしてさて止みぬ 。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。未法に入って今日蓮が 唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。(御書1594)

と仰せです。また、釈尊がご入滅されて後のニ千年は、ただ自身の成仏を願うだけの理行の題目の時代でした。しかし、未法今時の修行は、自身の成仏に留まらず、他の人々に広くいて共に唱題し、ともに成仏する自行化他の題目の時代です。

日蓮正宗 宗務院出版 真要より引用

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